コラム

J-CDSの「羅生門的現実」

このプロジェクトも発足してからいつの間にか1年間以上がたちました。時間の流れはあっという間で、高等教育の変化に追いつくだけでも非常に大変に感じます。高等教育における直近の大きな変化の一つに国立大学法人化があります。法人化してから今年で15年が経ちました。

私は、法人化直前の2004年3月に大学を卒業しました。あの時は、民間企業に就職が決まり、卒業式で友達と浮かれていました。そのハレの舞台裏では、大学組織内における法人化への混乱や多忙と合わせて、新しい制度への熱い期待などが渦巻いていたとお聞きします。

立場は変わると見えるものがかわります。私が最初に就職した企業は総合物流会社でした。配属先では、コンテナ船積み下ろし監督と通関業の仕事をしていました。目の上のたんこぶは税関で、いつも気にかけるのは天気予報。税関はみなさんが海外旅行で経験したことがある通り、何かあると非常に厳しく対応されます。また、コンテナ船荷役は時間との戦いなので、海が荒れると最悪です。豪雨や強風も荷役の妨げになりますし、重大事故の発生にもつながります。

こんな感じで当時は高等教育のことなどこれっぽっちも見えていませんでした。国立大学法人化は新聞の見出し程度でしかない。学校法人も知らなかった。ましてや大学職員という仕事も知りませんでした。

何が因果か、巡り巡って2つの私立大学(学校法人)、3つの国立大学で教職員として仕事をしてきました。今ではいっぱしに専門分野に高等教育論とまで書くようになりました。あの頃の自分では想像できない未来です。今ではコンテナ船の無骨だけどかっこいいフォルムに思いを馳せることはありますが、税関や天気の動向に目を配ることはありません。立場がかわると見えるものがすっかりと変わりました。

最近ブレイディみかこさんの「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」という本を読みました。息子さんの英国での小学校・中学校での日々の出来事を綴ったエッセイで、大学に勤めるものとしてもそうですし、学齢前の娘を持つ父親としても考えさせられました。

このエッセイの中で、息子さんが市民性について学ぶ「ライフ・スキル教育」という授業でシンパシーとエンパシーの違いについて考え、そこでの学びについて母である著者と親子で会話する場面が描かれています。息子さんは、「エンパシーとはなんですか」という授業課題に「他人の靴を履くこと」と回答し、良い評価をもらいます。これは英語の定形表現で「他者の立場に立って物事を考える」ことを意味します。私はこのエピソードを読んで、私の祖母の「我が身つねって人の痛さを知れ」という言葉を思いだしました。そう、私が大切にしていた言葉を思い出したのです。

例にもれず流行り物をそれとなく触れてきた私。Facebook、Twitter、InstagramなどSNSも一通り活用してきましたが最近Twitterのアカウントを削除しました。共同研究の出会いがあったり、研究テーマのヒントを貰ったり、時に知らないだれかに絡まれたり、エアリプ批判されたり、つぶやきを誤解され心配されたり・怒らせたり、大学職員転職アフィリエイト副業を目撃したりと、私自身もフォロー・フォロワー周辺もこれといった大きな炎上もなく慎ましやかに生息してきました。

やめた原因はこれといってありません。しいて言えばブレディさんの本が、エイヤっとアカウント削除ボタンプッシュの後押しになったのかなと思います。知らぬ間に自分の立場や視点に偏った情報に、いつの間にか囲まれ過ぎてしまっていることに気づいたからかもしれません。もちろん、それに自覚的でありながら有益に使えばいいのでしょうが、私はあまり器用ではありません。できるかわかりませんが、年とともにプリン体で少し肥大気味の自分の足を正しながら、他の人の靴も意図的に履いてみようと考えています。

さて、J-CDSプロジェクトの現状を踏まえると、今回のコラムでの「立場によって異なる視点」に注目することはとても重要なものだと考えています。つまり、J-CDSプロジェクトにおいて、人文・社会科学の知見である「羅生門的現実」を考慮することが重要ではないかと考えています。

黒澤明監督の映画「羅生門」は、芥川龍之介の小説「羅生門」の舞台背景を用いて、別小説「藪の中」の物語(モノ騙り)を組み合わせた秀逸な作品であると評価されています。この映画では、藪の中で起こった殺人事件について、盗賊、武士、武士の妻それぞれの話者によって全く異なる現実が描き出されています。

この「羅生門的現実」について本プロジェクトで得たいくつかの知見に当てはめてみると、これまでと異なった現実が立ち現れてきます。例えば、大学を対象にした調査は大学側にとって負担である語りもある一方で、マスコミにとってはその調査自体が事実を世の中に伝える社会的正義と企業人としての矜持(プライド)でもありえるようです。

つまり、J-CDSというデータ定義集を構築・普及すればすべて解決ということではなく、大学の情報公開や説明責任に関わる制度をとりまくあらゆる利害関係者の信念対立を明らかにし、調整していくことも必要だということが少しずつ分かってきました。

今年の8月から文部科学教育通信で、このプロジェクトメンバーでJ-CDSプロジェクトについて共同連載をすることになりました。計15回の連載を10名のリレートーク形式で進めていく理由の一つとしては、1つの大学をとりまく社会的課題について、異なった現実の現れ「羅生門的現実」を記述し、それを総合的にまとめていきたいという私の考えがあるからです。今風に言い換えると、それぞれの世界線をメタ的に見るでしょうか。

同連載では、このような狙いとともに、これからの本コラムで触れない内容などありますので、ぜひお手にとって御覧いただければと思います。

(新潟大学 上畠洋佑)